2025-01-01から1年間の記事一覧

曖昧の受容

曖昧の受容は、共通言語的なストーリーからの離脱に向かう片道切符だ。 社会は共有可能性を正しさとした共通言語、そしてそれによる意味づけによって成り立っている面がある。 一番わかり易いのは虹だと思う。「虹は何色か?」と問われれば、「7色。」そう…

My Internet (ブログバトン的な)

ほし氏さん (id:star-watch0705)からバトンを頂いたので埋めてみるよ。 star-watch0705.hatenablog.com 見るからに取っ付き辛そうな空気満載な文章ばっかり書いてる僕に回してくださるなんて… ありがとうございます 一気に駆け抜けるよ。 My Internet (ブロ…

真理と包摂 意味と現象 信と疑

土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル他、これらはヒトの信仰体系とその延長線上に生まれたもので、人々が共有し帰属することで自己の存在基盤になる意味的安定を与えるストーリーであり価値基盤。分からなさに耐えられない…

2つの視点から見る「言霊」

言霊という言葉がある。言葉には霊的な力が宿っていて、それが現実化するという。 でもこの一般的な言霊の認識は、言葉というものを、型枠ではなくクッキーであるという前提の視点から意味づけされた観念じゃないだろうか。クッキーはクッキーだという人の見…

競争の肯定に見る「価値化」 ー 社会とサル山の本能

現代社会では生きているだけで「競争の肯定」という社会的価値観に巻き込まれていく。それは幼稚園から始まる。社会徒競走でもお勉強でも。小学校、受験、社会もその競争を前提として設計されている。その是非は置いといてね。 まず競争とはどこから来るのだ…

信 ー 彼岸か真理か ワッツ批判

多くの語りでは、自己変容後やSpiritual Awakening、個性化、他にも言葉はあると思うけど、まぁどれも若干ずれるだけで同じものだから変容でいいか。 変容を経た後は目に見えないものを信じることが大切という。信じることはやはり強い。それは人に土台を与…

『"正しさの前提と範囲の可視化"と"相対化"』『別軸の価値基準の導入』

正しさは絶対的なものとして個の内面に対し、様々な社会により導入、定着される。 最も身近な家族という社会、国・地域社会の標準化装置としての役割を担う幼稚園や学校、テレビや本、ありとあらゆる場所から絶対的な正しさは内面化される。個々の内面で、価…

言葉の硬直化、具体と抽象、意味の引力 ー 小泉構文が許されない現代

言葉が共有可能性という正しさのために、定義に閉じ込められていくという流れが、インターネットの出現以降顕著になった。言葉の幅が狭まること、型枠通りの言葉しか流通しなくなることの問題点は、言葉が人の精神を形作るという部分にあると思う。言い換え…

社会にとっての現実 ー 知覚としての現実

社会的な定義での現実という言葉はとても狭義だ。それは社会が現実の対極に置く非現実に押し込められている。 社会というものの中では共有可能性が正しさになり、共有が難しいものを切り捨てる側面がある。最近の人がすぐに(彼らの定義での)エビデンスを求…

僕の文明・倫理史観について ー 仏教観

僕は善悪、社会倫理等についていつも文明、一神教、群衆に言及するので、それらについて批判的と取られる可能性もあると思う。一応その辺りの認識について書き残しておかないとなと思った。 まず、僕はそれらを批判しているかといえば、そういう見方もできる…

前提 ー 不可視化された当たり前とその直視

前提は不可視化される。それはヒトにとっては自然なことだ。 空間の匂いに慣れるのも、環境音が気にならなくなるのも前提化するからだ。合理化であれ順応であれ、そこに意識が向かなくなる。 生物レベルで言えば大気や光が見えないのも、水が透明に知覚され…

愛に見るもの ー 愛の原形としてのAffection

愛を言葉にすると安っぽくなると言われるが、どうしてだろうか?そもそも愛とは何だろうと目を細めてみると、愛という言葉は様々な概念や観念が同居したカオスだと分かる。いろいろな人達が、愛という言葉でそれぞれ別のものである、自分にとっての愛を表現…

生と死の脱構築

生きる。多くの文脈で共有されているのはこの能動的で主体的な生だろう。 生きている。状態を眺める視点。 生かされている。周りの環境、人々との関係性の中での受動的な生。 生きさせられている。生きることを強いられているという、能動的だけど生が避ける…

『私』の解体 2 ー 私という概念、観念、認識、知覚

線は単なる概念だ。拡大率を変えれば厳密な線など存在しない。境界も実在ではなく概念。拡大率を変えればそこにあるのはグラデーションであり連続。空間とは何か。ワッツ的に言えば変化する繋がりの距離だろうか。空間には距離はあれど無ではない。空間には…

退廃 ー 規範による抑圧と必然的な裂け目

社会的なフィルターを取っ払えば、退廃とは寧ろ自然な欲求が原動力になっている。デカダンであれトー横界隈であれ、もっと小さな2人だけの逃避であっても。 デカダンは分野的には芸術だけど、ヴィクトリア朝的価値観の反動が原動力になった。厳粛なキリスト…

言葉と意味 ー 自我の層による関係性の変化

意味に縛られなくなると意味や言葉を語らなくなると言われたりもするけど、そうだろうか? 言葉にならない部分に意識がいく、それを抑圧しなくなるという部分はそう。でもそれは言葉を捨て去ること、意味を捨て去ることではない。 言葉は自己を形作り、自己…

正しさの前提と範囲 潜在的共有観念としての絶対性

正しさには前提と範囲がある。これは算数においての正解であっても、二元的な正義や善であっても、真理であっても同じ。 これらが絶対的なものとされる時、前提や範囲が見えない程近い、不可視化された視点で語られているのであり、それを写真のように固定さ…

テイカーの保護者性 ー テイカーに見る保護の支配構造

テイカーと呼ばれる人達に僕が見たことがあるもの。 まずこの人たちは他者を操作する能力が高い。そこにあるのは相手の押しに対する弱さへの嗅覚と、相手を操作することを自らに正当化する能力だ。 彼らは、騙されることに対する恐怖を内包している。それは…

『私』の解体 1 ー 私という観念

私という概念であり観念である像は外から導入される。 私が個であること。それは『私』というものを、皮膚という輪郭でひとつに括って見ている。そしてそれは外から見た理屈だと言える。鏡像認知もまたこの応用であり、外に見る誰かという皮に包まれたものを…

Letting goと蝶 / 手を離す

Letting Goという概念がある。日本語では「手放す」と訳されるが、その語感ゆえに多くの場合誤解されている。まるで、何かを投げ捨てるようなイメージで使われてしまう。 しかし本来のLetting Goとは、「手を離す」こと。すなわち、自由にすること。 手の中…

意味と知覚

今朝運転してて浮かんだこと。 意味ばかり追い求めることは、知覚という、より純粋な私自身に対するネグレクトである。 意味付けとは子供の声に対する大人の解釈、判断である。 知覚は子供のように無邪気に見えたものを、感じたことを自己に対して伝えている…

初めまして?

ピピピーピピー…聞こえますかー…?初めまして? こっちをメインにしていたのだけど、以前とは感覚が違う使い方になると思うので、ブログを分けました。多分、近い内にメインとサブも入れ替えることになるでしょう。 hasriq.hatenablog.com 一応最初だから具…