意味に縛られなくなると意味や言葉を語らなくなると言われたりもするけど、そうだろうか?
言葉にならない部分に意識がいく、それを抑圧しなくなるという部分はそう。でもそれは言葉を捨て去ること、意味を捨て去ることではない。
言葉は自己を形作り、自己は言葉を形作る。社会的動物で尚且つ言葉をコミュニケーションの主体にする(文字通り言葉が主体なのだ)ヒトにとって、言葉やそれが作り出す意味は自己同一性と同義であり、依存する対象になる。
それが自己変容後、依存する対象ではなくなり、言葉や意味の呪縛から解放される。ここまではいいよね。
それが、「言葉や意味が不要になる」これは飛躍、いや二元的な捉え方による誤訳になる。実際は「言葉や意味に縛られなくなる」だけ。
前者は言葉や意味に疲れた絶望からの反動であって、寧ろ言葉や意味に縛られ続けている反射的姿勢。
後者は言葉や意味の副作用や煩わしさも経験した上で言葉や意味が生み出しているものも見つめた上での受容的姿勢。
言い換えれば、前者は社会的な言葉によって作られる意味の化身である自我視点での認識で、後者はその自我の崩壊後に立ち上がる自己を見つめる主体としての自我視点での認識。自我という主体のある層が違うのだ。
この観照とも呼ばれる在り方、そこからの問いを言葉にし続けたとされるのが老子や荘子で、そしておそらく釈迦なんかも、言葉や意味を捨てたわけではなかった。最近の人ならアラン・ワッツも。彼らの言葉は、一つの意味に閉じない言葉として残っている。(それらを誤訳して意味として閉じてしまうのはいつも他者なのだ)
言葉は我々を形作っているし、我々は意味を見る。それがいつしか言葉に使われ、閉じた意味によって私という意味に閉じ込められる。そこから解放されるということは、言葉や意味と自分の関係が編み直されることであって、言葉は自分のものに、意味は閉じないものになるということだろう。
それはある種の哲学者や思想家がそうであったように、子供のような、問いが意味に縛られる前の純粋な世界に立ち返り世界に疑問を持つこと。
それはある種の詩人がそうであったように、子供のような、言葉が伝えるための表現に縛られる前の純粋な世界に立ち返り世界を感じること。
その時言葉は戯れる相手に還るのだ。
(これは分野の話ではなく、ある種の人、すなわち、知覚と共通言語の狭間を経験している人の話で、その発露が哲学であり、思想であり、芸術であり、宗教であり、心理学であるということ)
意味や社会的な言葉に縛られ続けること、それは言い換えれば単なる囚われではなく、その人が今「社会の中での私」を生きる必要性の裏返しでもある。非二元*や受容と統合、観照は個性化後の一形態でしかないのだ。
意味や言葉、自我や自己との関係性も結局は人それぞれで、タイミングや段階にもよる。外の世界と個という世界の関係性がそうであるように。それは大前提だ。
*非二元という概念が既に二元的な表現によって二元の統合後の状態を示すという言葉のパラドックスを体現している。これが言葉の限界だろう。