多くの語りでは、自己変容後やSpiritual Awakening、個性化、他にも言葉はあると思うけど、まぁどれも若干ずれるだけで同じものだから変容でいいか。
変容を経た後は目に見えないものを信じることが大切という。信じることはやはり強い。それは人に土台を与える。でもそれは、信に生きることが出来る人の理屈だということは指摘しておかなければならないと思う。
信というのは懐疑の逆方向だ。信じるということは疑わないということ。
ただ、ここには二元もある。多分それは僕の側からしか見えない二元、なぜなら信に生きられる人にはそもそもその発想がない。信に対する懐疑がない、もしくはそれを見ない。
表現が難しいな…
僕から見れば信は彼岸にある。裂け目の彼岸にあって、跳躍することでしか渡れない。しかしその跳躍は代償を伴うものだ。僕にとっては、信というのは可能性を閉じることであり、それは無に等しい。なぜなら、懐疑が自然な人間だからだろう。
でも多分、信に生きられる人は、誤解を生むことを恐れずに言えば、常に信から信に移動している。その移動過程が自己の危機になり、それが次の信をより強固なものに出来る。信とは安定である。なぜなら帰属だから。
現代社会においてはこの信や帰属は前提となっている。アイデンティティ。そう。さっきの例で言えば、信に生きられる人は帰属先への移行過程が自己同一性の危機になる。「私」が帰属によって成り立つから。
僕のような、どこにも上手くフィットできない人間は、その帰属という現象を外から見てしまう。だから同じ原理に集まる人々が、時に塊に見える。一時的に入ってみては抜け、その繰り返しになってしまう。なぜなら、その「人々」と自分の違いを認識してしまうからだ。ただ、それは後から考えてみれば、不安定というよりは、内的な整合性を基準にした人間の場合、寧ろ自然な運動なのだ。
僕を含めこの種の人々、とりわけ若い時期は、集団生活の中で自意識過剰なのかもしれないと自己嫌悪に陥ったりもする。でもこれも、他の外的に認識させられるミスフィットとは少し違って、「私」の立ち上がりをどこかで『知覚』していることによる自己起因のミスフィットだったりもする。私と彼らの違いを意識してしまう。でも実際にその違いは明確で、それは「私」が知覚によって明確なものではないと認識されている人間と、「私」が確固たる前提である人間の違いなのだ。
前者にとっては「私」という前提、そしてそれを生み出す意味や言葉も信の対象にはなりきれない。後者は信を通じて「私」を守るのである。
変容は双方にとって起こる。「私」が崩れ、再構築された自我による実存という段階では、前者にとっての信は、どう認識によって釣り合いを取っていくかになる。後者にとっての信は、私が至った認識という信になる。
方や新しい「私」にとっての意味に揺らぎながら生き、方やより包摂的な新しい意味という「私」に住まう。
真理という言葉を使えば、前者は真理を破壊し続ける運動であり、後者は真の真理を求め続ける運動なのだろう。
そしてその先には、「私」の解体と、全体性という包摂がある。ここにきて信は、前提から除外される(懐疑の二元的な意味からの解放)か、全てにおける前提(包摂による懐疑の無化)に昇華される。
言い換えれば、後者には全体性への帰属という間接的な意味化によって、「私」を現象からずらした形で安定させる作用がある。ここに、僕から見えるワッツの矛盾がある。彼は社会的な語り手として生きるために、そこに帰結せざるを得なかったのだろう。全体性を認識した上で舞台で踊ることを説きながら、舞台そのものの意味のために全体性という包摂に帰結していた。倫理的だった。そこに彼のTabooの残滓がある。これは、舞台に生きる人の見方を包摂というやり方で極大化し、批判の外に置くある種の欺瞞だと思う。
「こちらから見れば」ね。僕にとっては彼岸、彼にとっては真理なのだ。
(ワッツはこのパラドックスを揺らぎの中にまだ保持していた。それが彼の柔らかさ。しかし多くの彼の信奉者は、信に生きる人達は、全体性の光に囚われ、その正しさによって世界の懐疑の芽を焼き払う。もしくはそこに位階を作る。これは彼も予見していた。)
単なる自己と世界の方向性の違いということは前提に、それを指摘して終わっておく。
僕にとって、彼らの言う真理としての全体性は、可能性が閉じるという意味でも越え得ぬ彼岸。そして知覚される全体性は、儚い刹那の中でしか立ち上がらない虹のようなものなんだよね。それは、全体性なんて言葉にしてしまえば霧散してしまうもの。
