言霊という言葉がある。言葉には霊的な力が宿っていて、それが現実化するという。
でもこの一般的な言霊の認識は、言葉というものを、型枠ではなくクッキーであるという前提の視点から意味づけされた観念じゃないだろうか。クッキーはクッキーだという人の見方だ。だからクッキーの魔力に憑りつかれる。
言葉は型枠であるという前提の視点から見ると、言葉の中に込められているものは材料でしかない。型枠を見る視点というのは、そのクッキーが何らかの材料から作り上げられているものという、生成過程を見る視点だ。それはクッキーの魔力を否定するものではない。
材料は意味を含む。その意味に縛られるのは、そのクッキーにどんな材料が含まれているか知らないからであり、その材料がどんなものかも知らないから。だからクッキーを見ただけでは意味を知覚できない。
(言霊など無いという断定の主張の視点はビスケット信奉のためのクッキー否定がほとんどなのでここでは前者と同列に扱う)
言葉が型枠であるという前提の視点では、言霊はあって当然だけれど、それは人は意味に無意識に縛られるという性質があってこそのものだという見方になる。クッキーの味や香りや舌ざわりを知覚し、囚われるのは人の側なのだ。
「このクッキーやばいよ。止まんねー、食べだすとコントロールできないから気をつけなきゃ!」っていう視点と「このクッキーには~っていう成分が入っているから、それが~な作用をして食べだすと止まらないんだよね」っていう視点の違い。ある意味前者はより純粋にクッキーの味だけを楽しめるとも言える。でも後者は前者の恐れやクッキーの魔力がクッキーそのものではなく、成分と人の性質によるものという部分がわかる分、クッキーそのものを味わえるとも言える。魔力の外在化と意味付けか、内在化による魔力の再解釈。
もう少し強く言えば、クッキーの魔力を恐れるということは、クッキーには魔力があるから美味しいというすり替えが起こるということ。その時人はクッキーそのものの味を味わっているわけではない。
言霊という概念を自身の中で採用するというのも同じで、それは言葉そのものではなく意味に縛られることの前提化でもある。意味が「私」を作る以上、これは大きな、関係性の固定とも言える。
ただ、そもそも現代社会ではクッキーを型枠から作られるものという視点から見た言葉が少ない。既製品で溢れているから。あの子が食べてるくまさんクッキーと僕が食べているくまさんクッキーが同じという前提に立っている。言い換えれば、それは視点としてすら認識されるものでもなく、当たり前という一言で済んでしまうもの。
結局は、クッキーとは何かを問うのも、なぜ多くの人は既製品のクッキーしか見ないのかという疑問を抱くのも、クッキーを分解したりハンドメイドする人の見方でしかない。2つの視点といいながら、前者も後者も言語化しているのは後者側。
いずれにせよ、その人がどうクッキーを味わうかの問題でしかない。
