前提 ー 不可視化された当たり前とその直視

前提は不可視化される。それはヒトにとっては自然なことだ。

空間の匂いに慣れるのも、環境音が気にならなくなるのも前提化するからだ。合理化であれ順応であれ、そこに意識が向かなくなる。

生物レベルで言えば大気や光が見えないのも、水が透明に知覚されるのも、根幹は同じかも知れない。

 

前提は欺瞞と相性がいい。灯台下が暗いのは見たくないからだ。

 

前提の不可視化は群れレベルではより洗練されたものになる。

命は尊い、愛こそ全て、勤勉は徳、あらゆる善性。

社会の中で生きているうちに入ってくる概念や観念に紛れて、群れからも個人からも不可視になった前提、当たり前が個の中でも根を張っていく。丁度、星の王子さまのバオバブの木のように。群れの前提。現代で言えば倫理や社会構造(ここで言う社会構造は群れ内部の制度的なそれとは少し違う、より根深い部分)を形作るもの。

これらは文明視点では秩序維持のための制度で、文明が自然と切り離されてからは宗教が担っていたものが、近代では倫理となり、現代ではあらゆる言葉とともに個々に内面化され、複数の層にまたがり、欺瞞で多重に不可視化された網目を作っている。

 

群れレベルの前提に適応できない個体は、群によって排斥される。

そして、この群れレベルの前提は個々に内面化され、それが個々の個性の幅や、その人の成長段階によって様々な齟齬を起こす。

群れから距離を置く、上手くフィットしない個にとって、この群れの前提は、その個の在り方を変えようとする強い圧だ。目に見えないだけに、そして内からも侵食していくために、その個は外からは圧迫され、内面からは引き裂かれていく。

群れの共通言語としての言葉がバオバブの種を媒介する。もしそれと対峙するなら、個々が内面で一本ずつ抜き取らなければならない。

 

ただ、現象的に見るならば、この群れの前提というのは、個に押し付けられるのが自然なものでもある。群れの前提、制度、それは自律神経だからだ。群れは往々にして自らが一個体として在るための統合性を求める。

これは丁度、個の内面の「自己と自我」と同じ構造をしている。不安になれば自我は固定化され、思い込みで身を守ろうとする。それと同じことは群衆という単位でも再現される。意識(無意識)というのは、個も集合も全体も含んだ多次元的なフラクタル性がある。不可視化された前提はそれら階層を跨いで、絶えず連鎖しながら生成される世界を固定していく。(上手く言語化出来ない…)

直視とはそれら不可視化された前提を再び可視化する営みであって、再び環境の音や空気を知覚するということとあまり変わらない(多分マインドフルネスに近いけど、散々消費されてる概念なのでそうは呼ばない)。違うのは、欺瞞を突き破る手間があるということくらい。でもそれが大きい。言葉から解体しなきゃいけないから。前提を再度前提ではなくすことは多次元的な作業になる。


不可視化された前提、当たり前。

言い換えれば、総じて固定観念である。