社会にとっての現実 ー 知覚としての現実

社会的な定義での現実という言葉はとても狭義だ。それは社会が現実の対極に置く非現実に押し込められている。

社会というものの中では共有可能性が正しさになり、共有が難しいものを切り捨てる側面がある。最近の人がすぐに(彼らの定義での)エビデンスを求める短絡さもそこにある。「その」エビデンスとは、共有不能なものを誤り、感想であって正しくはないものとして弾くための常套句となっている。そのように言葉を使う人にとっての共有可能性、再現可能性なんていうのは、物事を分かりやすいフレームに押し込めるための理屈でしかない。更に言えば、そのフレームというのは前提化された社会であり、この文脈における現実という言葉は常に社会の中での生の固定、社会的合理性、社会構造内での生存条件や責任観を内包している。

 

知覚を頼りに生きてみると、その辺りの息苦しさが見えてくる。知覚は外界と内界を区別しない。そして知覚することは知覚されることでもある。風に吹かれて肉体の輪郭が浮かび上がるように、風が肌を触れるということは肌が風に触れるという、相互性がそこにはある。

これは外界の例だけれど、内面に対しても知覚は同じように「開かれている」。自分を中心とした内的な世界の広がり、思考の末たどり着く何か、浮かんでは消えるインスピレーション、再生される過去の一場面、潜在意識に眠る何か、何の脈絡もない夢、錯覚や幻覚と切り捨てられるもの。それらは「知覚されたもの」としては、外界に見るもの・感じるものと等しく事実だ。言い換えれば、社会的な現実という言葉に切り捨てられている現実の一部と言うことが出来る。現実という言葉を使うならね。

 

知覚とは、本来、世界と自己が同時に触れ合う運動であり、それは社会・自我的な言葉で表現し得る意味以前の、より感覚的な「相互作用の場」である。

しかし、社会的現実の文脈では個人の知覚というものは射程外になる。仮に知覚に肯定的な言説が現れたとしても、それは常に社会の求める正しさの範囲内に収められ、社会的な意味に回収される仕組みになる。癒やしや芸術論、マインドフルネスのように、社会的現実の中で生きるために有用なものという前提の元、方向性は消費に向かう。

言葉、意味、価値の三段階で感じ方そのものが定められているのだ。

 

まだこれだと社会的現実の側から見ると弱いので、知覚側でもう一歩深めてみる。

知覚は反響する。音楽という音の波は外界から知覚されるが、それは内面で様々な記憶、感情、そして言葉にならないものと反響しあい、また外から入り続けてくる旋律とともに絶えず影響し合いながら知覚され続ける。そこに像が生まれたり、情動が誘われたりして、それも知覚される。音波だけが現実なのだろうか?

食事も同じでね、目に見た食べ物、香り、舌触り、食感、そして味、それだけが知覚されているわけではない。それらから浮かぶなにか、感じるなにか、滲むなにか。味わうということは外面の知覚と内面の知覚を反響させることだろう。

よく言われる、感じることで豊かにするというのは、勿論当たり前になってしまったものをもう一度感じましょうっていうのもあるけれど、この知覚の反響を楽しむ余裕を持つことという意味もあると思う。

 

夢はどうか?夢だって起きたあとしばらくは経験として残ってる。それは外界での経験と同じ。それを夢だと切り捨ててしまうのは、世界を貧しくするように思う。

 

ちょっと難しいのは、これもまた現実と二元扱いされるもので、理想かな。例えば理想が現実化すると言うけど、それも内界と外界が影響しあっていると捉えれば非現実とまで言ってしまうのは切断だと言えるのではないか。この切断って感覚、非常に言葉にしづらい。

理想があるから(狭義の)現実になるとも言える。理想の問題点とされる、現実を見失うっていう言葉も、捉え直してみれば、理想に(狭義の)現実が引っ張られているだけかもしれない。これを裁いてしまうのは(狭義の)現実における価値を損なうからで、比重がそちら側にあるからとも言えるわけで…

 

そして理想が未確定の未来なら、確定した過去である記憶。

過去、記憶はね、僕のようなメランコリックな人間には大切なものなんだよ。それを「現実ではない」「幻想だ」と切り捨ててしまうと、一気に世界の半分が失われたようになる。

なぜなら、過去と現在は絶えず反響し合っているから。今感じるということ、それは外から感じることも、内面に感じることも含めて。それは経験というフィルターがあるから色づいている。そのフィルターがあるから、雲に色づく夕日にあんなに色んな感情が湧くのだし、あんなにも美しい。このフィルターは認識しているかどうかに関わらず、恐らく成長に従い誰しもが持っているもの。過去を非現実だと切り捨てるのは、このフィルターを認識している人から色を奪うこと。そして恐らく、認識していない人からも広がりを奪うことだ。

 

何より、外界の知覚そのものだけを頼りにするなら、世界は単なる刹那でしかない。その刹那を世界として、意味や思考、感情も伴い認識しているというのは、つまり既に内的に処理された世界を見ていることであり、既に社会の言う「現実」を逸脱しているのだ。

 

僕はどれを現実と言うか、どれが現実でないかを争うつもりはないよ。

ただ、世間に見る現実という言葉がいかに狭いものか、いかに「個に知覚されたもの」を切り捨てているのかを指摘しておくに留める。

 

だから僕は、現実という言葉を使うなら、知覚されたものの前後全てを現実と捉えるようになった。非現実という言葉は使わなくなった。知覚されないけど誰かが現実と言っているものは、誰かにとっての現実。僕のものではない(この線引きは他者の見方を内在化しないために重要になる)。

幻想や理想、それに準ずるものも現実と相補的なものとして捉えてる。だから、僕にとっては、現実の中に幻想があり、幻想の中に現実がある。

内的な知覚、外的な知覚の間、色々な知覚が反響する場所には僕がいて、その僕を眺めている僕もいる。だから知覚「される」し、それを見ている。

 

知覚を頼りに生きるということは、この知覚の束が繋ぐ内外の連続性を断たないことだ。それは、私の連続性とも言えるし、世界と私の連続性、すなわち循環とも言える。言い換えれば、内外を二元として切断しないこと。内があるから外があるし、外があるから内がある。(あるということはないということでもある。ややこしくて申し訳ないけど、これは言葉の限界だと思う)

「知覚される世界」は入れ子であり、鏡であり、反響でもある。それを「知覚し、される私」は、その知覚によって浮かび上がる流れなのだろう(これはワッツの影響もある)。

 

 

まぁ長々と書いたけど、そもそもここに書いているようなことは「行為主体としての自我とは別の私」を、何となくでも認識している人にしか伝わらないはずのものなんだよね。言い換えれば、言葉、意味、価値を始めとする、「共有可能性というもう一つのフィルター群」を通して感じる世界に疑問を抱いたことがある人。どのくらい居るんだろう?