現代社会では生きているだけで「競争の肯定」という社会的価値観に巻き込まれていく。それは幼稚園から始まる。社会徒競走でもお勉強でも。小学校、受験、社会もその競争を前提として設計されている。その是非は置いといてね。
まず競争とはどこから来るのだろうか。自然界において我々が競争と呼ぶものは、寧ろ我々の価値観の投射でしかない。生き残り競争などと言って、動植物がいかにも生き残りのための競争をしているかのように語られるが、競争というものが意味でしかない以上、自然界においてそれを当てはめるのはヒトの都合でしかない。仮に競争的な形態で生き残りが図られているように見えても、それは結果でしかないのだ。
寧ろ自然界に多いのは、争いというエネルギーの消耗を避けるかのような、棲み分けという結果。そうしてニッチが埋められていく。そのニッチへの広がりと見るか、ニッチを求めた競争と見るかも意味化でしかない。
ただ、自然界の中で一つとても人々の言う競争というものに近いものがあるとすれば、社会的動物の一部に見られる、群れ内におけるリーダーや順位争いだろう。これはサルやチンパンジーにも見られ、群れと群れの争いにおいても同じである。チンパンジーは近隣の群れの個体を殺すこともある、とてもヒトに近い動物なのだ。
どちらかと言えば、競争原理というのは自然界の普遍ではなく、ある種の群れの本能に根ざしたものなのだろう。
社会とはサル山の延長であり、その群れの本能が原動力となって成り立っている側面がある。本能が駆動系に溶け込んでいると言っていい。だからこそ、その群れの本能を肯定(二元的な意味で)する形で様々な社会的価値を定義している。なぜそうなるかと言えば、それが自己保存だからだろう。個レベルでも、様々な社会レベルでも、文明レベルでも、内在化された競争という価値を無意識の内に守るために周縁の現象や概念が意味づけされていく。
その相互的な作用の結果が競争社会なのではないだろうか。
ただ、社会がいつも見落とすのは、コミュニティという顔と名前が一致する繋がりのレベルを脱した時、群れは既に本来のサル山という単位は脱しているのである。にも関わらず、国家や文明という極大化された単位の、共同幻想と表現されるのが妥当な単位でもヒトが群れの構成単位になることが出来るのは ーそれらが帰属先として機能出来るのはー、国家や文明にアイデンティティとしての機能が組み込まれているからだろう。
何が言いたいのかと言えば、これら上位の社会というのは、実質的なサル山の機能としてではなく、駆動原理の一つとして「競争」を継承しており、自己保存的作用のために、それを肯定的に意味化し、価値付けている側面があるとも言えるのではないか。そしてそれはある種の信仰のような形態で、個や社会をストーリーの中に巻き込むのである。
「競争の肯定」は文明の流れとしては必然であっても、競争自体は自然界で普遍的なものではなく、個が縛られなければならないものというわけでもない。ましてや現代的な社会形態において、無意識にそれに縛り続けられるのは、社会的役割のプレイヤーとしてサル山の本能を内在化し続けることに他ならないのではないだろうか。
(絶対誤解されるから書いておくけど、別にサルを貶したいわけじゃないよ。ヒトがいかに自分たちがサルとは違うかを語りながら、結局は何も変わっていない、寧ろその位階を心の拠り所にするあまり、自らを優れたものと捉えようとしてその本能に縛られているところが滑稽だよねって話。それがとても愛らしくて哀しい。)
競争という言葉の束縛は意識化して解こうと思えば解ける。でも、結局それを前提とした社会で生きるには、多くの場合、新たに実存的な意味を見出すか、演じながら生きるか、隠遁するかを強いられる。特に隠遁については、それを直感的にやってる人も中にはいて、それがある種のホームレス的な人に僕が感じる気高さでもある。でもそういう人達を敗者と見做すことで、社会というストーリーは彼らを競争のための燃料として回収し、回り続ける。
