生と死の脱構築

生きる。多くの文脈で共有されているのはこの能動的で主体的な生だろう。

生きている。状態を眺める視点。

生かされている。周りの環境、人々との関係性の中での受動的な生。

生きさせられている。生きることを強いられているという、能動的だけど生が避けることが出来ない現実としてある立場での生。

生がある。生という現象を眺める視点からの観察的な生。

 

僕は生きるということにずっと違和感があった。自分が生きているのか分からなかった。でも、生きることは大切なこととされていて、皆一生懸命生きていることになっていた。

いつからか、命や心というものも含め、見えないものをどうにか説明するために生まれたのであろう言葉たちを使うのをやめて、生という現象を眺めるようになった。

 

僕にとっては多分、生きるということはそんなに能動的でもなかった。どちらかと言うと、既に生きていたから、能動的に振る舞うまでもなかった。後者4つの方が体感的には合う。

ワッツは、「人は川をものとして扱うが、川はものではなく水が集まり流れる現象でしかない」というようなことを言っていた(うろ覚え)。だから川を掴もうとしても指の隙間から水が流れていくと。僕にとっては僕自身の生や僕自身の肉体、精神を見るのは、その川を見ている感覚に近い。だって既に流れているのだから。

 

皆、ちゃんと生きなきゃって頑張っている。それは美しいことなのだろう。

そんな世界では、生きるということ、命と呼ばれるものが大切だと言われる。何よりも大切だと。本当にそうなのだろうか?それで否定しているものはないだろうか?否定が悪いという意味ではないけれど、生も捉え方は多様だ。それを忘れたら本末転倒だろう。

 

アニミズムでも多神教でも、人はただ生き死んでいった。生と死は切り離されていなかった。生は死も織り込んでいて、命などという概念も無かったはず。だから戦いに死ぬことも、誰かの首を狩ることも通過儀礼となった。そこでは殺しも、命を奪うという意味にはならない。強いて言うなら同化とか、お互い様とか、回帰とか、精霊化とか、そういうものだろう。

北欧神話のヴァルハラだって、死後の戦士はまた戦い、死に、生き返り、宴を楽しみ、戦い、死に、その繰り返しとなっている。

 

僕もそうだけれど、死に縛られるのは生を死から切り離すからだろう。

それは根源的には、生死が自然の流れから切り離され、生と死が神や仏(多少語弊はあるが)、そして自然科学の管轄になってからの話。

だから人々が「生きる」ようになったのも、命の終わりとしての死を迎えるようになったのも(生死が二元として切り分けられたのも)、割と最近のこと。

 

ある種の純粋な感性をもった哲学者や芸術家達がことごとく短命なのは、「生きる」ことよりも、それを削ってでも燃え尽きる自らの自然に身を任せた結果、とも言えるのかも知れない。そしてそれを狂気や敗北と意味づけるのは、あまりに文明的な試みなのだ。あまりに。