正しさは絶対的なものとして個の内面に対し、様々な社会により導入、定着される。
最も身近な家族という社会、国・地域社会の標準化装置としての役割を担う幼稚園や学校、テレビや本、ありとあらゆる場所から絶対的な正しさは内面化される。個々の内面で、価値基準として君臨するのだ。
現代において、特にその役割を強く担っているのは学校だろう。規範的な正しさを導入するばかりでなく、テストを通して答えを絶対的な正しさとして固定していく。これは啓蒙による標準化が当たり前になった後の、ごく近代的な教育システムにおけるものであって、近代国家の礎にもなっている。それ以前は学問は答えによって閉じる場ではなく、開かれた知性の場だった。現在は大学がその役割をかろうじて担ってはいるのだと思いたいけれど、その大学自体が社会システムに組み込まれてしまい、また別の権威構造の場になってしまっていて、開かれた知性とは遠い存在になってしまっている。飼い殺されていると言った方がいいだろうか。
絶対的な正しさの導入からはどう足掻いても逃れられないのが現代だ。それが社会的に標準化されている以上、適応できなければ排斥される。それはまた、常識という正しさを子どもたちに植え付けることを、正当性という正しさが担保することであって、それ自体が教育の目標の一つになっている。家庭でも、本でも、テレビ番組でも。
これは近代国家という社会の枠組みができてからの話であって、絶対的な正しさというものがこの社会制度の維持のためにいかに大切かということ。少なくとも文明は自己保身のためにも、それを前提にした制度化の回路を内包している。逆に言えば、それ以前の社会では正しさというものはより相対的なものだった。ギムナジウムや寺子屋のように、教育は答えを導入する場ではなかった。更に遡れば、正しさは力が証明すればよかった(それは野蛮という意味ではなく、秩序は近代的理性の恐れとは裏腹に、常に力の周縁に形成されてきた)。
僕いつも前置きが長くなっちゃうんだけど、それは不可視化された前提を可視化して相対化しないと本題に入れないからなの。現代的な当たり前が歴史的には、そして生態・生物・生理的にはいかに異常かっていう。
ここからが本題
だから現代では、絶対的な正しさが導入されることを前提に生きなければならない。そうすると様々な社会問題が起きてくるわけだけど、僕がここで話したいのは、絶対的な正しさの内面化による個の内面での軋轢、齟齬のこと。絶対的な正しさが前提化することによって、その人の本来的な自然が抑圧されてしまう。自己否定もそう。内的な整合性が取れなくなる。それが様々な問題を生むのだけど、その正しさという固定観念に縛られたまま抜け出せなくなるのが一番の問題だと思う。
『"正しさの前提と範囲の可視化"と"相対化"』
具体的に例を出してみれば、例えば中世の戦に魅せられる人がいたとして、でもその価値観は野蛮で不謹慎とされる。外から言われるならまだしも、自分の内面が常にそのワンダーと言うか、情動を正しさから逸脱しないようにコントロールしてしまう。でも不謹慎と言う人々の動機は自己保身に過ぎない。
早寝早起きという正しさを内包してしまえば、夜遅くまで起きている自分を常に否定し、罰することになる。でも生態的に見れば、ヒトは完全な昼行性ではなく、起きている時間も役割や気質によって分担してきた。
「ちゃんとしなさい」という正しさは、ちゃんとするということがいかに社会的な正しさに縛られているかを見ようとはしない。でもそのちゃんとするという規範的な生活が自然にできるのは、社会的な規範に寄った気質に根ざしている個体であるに過ぎない。
不倫はいけないという正しさは、自らの自然な恋心を抑圧するだけでなく、場合によってはそれを抱いた自分を無意識に罰することになる。でも情動とは自然なものであって、近代的な規範でどうこうできるものではない。
いくらでも例は出せるのだけど、この各文の後半にやっているのが僕の言う相対化。こうやってその正しさが何によって成り立っているのか、別の見方ではどうか、それらと同時に照らし合わせることで正しさの前提と範囲が可視化される。
ここまで読んで「いや、おかしいだろ。」と思う人は社会的前提・規範に生きられる人なのでそっ閉じでいいと思う。逆に、何か少しでも感情が動くなら、少なくとも自己が何らかの正しさに抑圧されている可能性は高い。
『別軸の価値基準の導入』
前提を可視化したところで、正しさの足枷で身動きが取れない状態だと、また別の正しさに回収されてしまう。欺瞞に落ち着くこともあるし、二元による雁字搦めでもっと苦しくなったりもするだろう。
この段階の時に僕がやったのは別軸の価値基準の導入で、僕は「美」を絶対的な価値基準に据えた。価値基準を正しさから美に移行した。前者は社会的な価値基準、後者は個の内面から浮かぶ価値だ。この段階ではまだジャッジメントから抜け出すのは無理なので、より実存的な自己基準で判断する。美しいと感じるか、美しくないと感じるか。それで判断する癖を付ける。こうすると自己が正しさから解放されて育っていくし、絶対的な判断から相対的な判断へも自然と移行すると思う。(ただ同時に、社会の中では生きづらくなる。でもね、ここに行き着く人は既に社会とよろしくやれない路線の人なので、まぁそこは上手く生きるしかないと思う。)
もう一つ、後になって補助的に導入したのが、「開かれた可能性」という価値基準。可能性が閉じないこと。それを常に見るようにすると、閉じた時には何か固定観念があるなっていうのが分かるし、開かれるように再配置すればいい。これは言語化が難しいけど。
それで、僕の場合は「美」と「開かれた可能性」が相性が良かったのだけど、多分正しさに回収されないような、個の内的な基準なら別のものでもいいと思う。しっくりくるものなら。
サンプル1だから別のものはわからないのだけど、多分、情熱とか?自分がどのくらい情熱を感じるか。逆に穏やかさとかもいいかな。内面の水面がどのくらい反応するか。言葉じゃなくて、情景や色とか旋律でもいいはず。
思考系だと何があるだろう。自分の考えとしてどれぐらい整合するかとか?数式とかでもいいのかもね。適当なこと言ってるけど、一応脳内で仮体験しながら書いてるので的外れではないと思う。
まぁそうやって、「正しさの前提と範囲の可視化」で外から入ってくる、既に内在化している概念や観念を脱構築してそこに含まれる正しさを「相対化」しつつ、「別軸の価値基準の導入」を通して価値基準そのものを正しさから切り替えていく。これが僕がやったこと。
誰にでも効果があるとは言わないけど、僕に近い性質の人にはそれなりに親和性はあると思うょ。

やばいまた長くなっちゃった。
最後に、僕は脱構築が趣味みたいになってるので、固定観念になっている可能性のある、不可視化された前提を見つける第三者視点が欲しいなっていう方がいましたら、お気軽にメールでも下さいね。ここの文体は固いけど、ただの趣味人だから怖がらないでいいょ🥹
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