土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル他、これらはヒトの信仰体系とその延長線上に生まれたもので、人々が共有し帰属することで自己の存在基盤になる意味的安定を与えるストーリーであり価値基盤。分からなさに耐えられない、ヒトという種が紡いできた物語。
これらが生まれる過程はいつも、より外側の真理(意味のためのストーリーや価値)を構築しながら包摂的に旧来の価値観を再解釈し続ける運動であった。
僕がやってるのもそれに近い(真理を所詮相対的なものとする立ち位置とはいえ)。そうせざるを得ないから。様々な単語や概念を脱構築し続けているとはいえ、非二元・自己の曖昧化・全てを相対的なものとしてみる現象主義に近いものの見え方、他にも色々要素はあるけど、殆ど言語化されていないものの見え方をする。(言語とは相性があまり良くないのもあるのだろう)
この言語化されていないというのが厄介で、この世界では言語化されていないものは無いものとして扱われる。僕自信もそれをある程度言語化して形を与えないと、認識として維持することも出来ない。だから常にここから見える見え方を、世間の人たちが言う見え方(自分もかつてそう見ていた見え方)と比較しながら、分解し、構築し直さないといけない。多分、歴史の要所で起きてきたストーリーの書き換えはこういうプロセスだったのだろうなと思う。勿論時間的なスパンや規模は全然違うと思うけどね。
何が言いたいかと言うと、結局僕がやっていることも包摂かも知れないと時折思っていた。それが僕の以前からの、不安とまではいかないけれど、疑念だった。
だた、ここで転換できたのは、包摂そのものの方だった。僕の疑念はつまるところ、包摂の、新しい絶対的な真理を根拠にした、ある意味暴力的な旧来の価値観の取り込み。でもここにあるのは、もう言葉になっているけれど、真理の絶対性という部分。それが包摂を生む条件。そうであるなら、真理というか、見え方による再解釈は包摂そのものではない。
だからこそ、僕にとっては真理や答えのような絶対的なものとして扱われるものを、相対的なものとして保持することは大切なのだろう。
最初に書いた、土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル。これらは歴史というタイムラインで見れば一見線のような流れを描いているが、全て立ち位置が違うだけで、その立ち位置による世界の解釈を語っているに過ぎない。寧ろ文脈・言語が違うだけで同じことを語っているものも沢山ある。
外側に立てば、もしくは一つの自己として帰属し縛られなければ、すべてを同時に場に生かすことも可能なはず。ただし、それには自らが縛られている部分をまず解かなければならない。でなければ結果的に包摂になってしまう。非二元と言いながら二元的な解釈しかできない状態に陥る人もそう。ストーリーはストーリー、現象は現象として切り離す必要があり、そのためには「私」というストーリーが見えない足枷になってしまう。
僕が今「寒い場所」とだけ書いて名前を与えていない立ち位置は、包摂ではなく、ストーリーとしてでもなく、再度生きたものとして、旧来の思想を「ただ見る」ことができる可能性のあるところなのかなと思う。それ以上でもそれ以下でもない場所。だから、見て書き留めることだけに留めたい。意味化してしまえば閉じてしまう。しかし意味化は安定でもあり、だからこそ人々は真理を追い求めた(意味化の欲求によって真理という意味を創り上げた)。その欲求は恐らく誰にでもあるのだろう。
だからここも、いつでも信によって意味の彼岸へ跳躍し、確信に住まい、包摂に堕ち得る場所なのである。それを思い出させてくれるのは、いつも疑念、懐疑なのだ。

(包摂が悪いとかそういう意味ではなく、その欲求が不安から来るものである以上、意味に閉じるための理屈になる。それは他者に伝えればいつか変質を通じて暴力に転ずるし、語らずとも物事を見る目を曇らせるフィルターになるため、避けたいなぁってこと)