曖昧の受容

曖昧の受容は、共通言語的なストーリーからの離脱に向かう片道切符だ。

社会は共有可能性を正しさとした共通言語、そしてそれによる意味づけによって成り立っている面がある。

 

一番わかり易いのは虹だと思う。「虹は何色か?」と問われれば、「7色。」そう答えるのが掟のようなものだ。

でも本当に7色だろうか?それらの色に境界はあるのだろうか?虹が先か色が先か?

 

名付けというのはとても合理的な営みだ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。名付けられた色が枠を持ち、それを基準に外の世界を見るようになる。合理化、言い換えれば世界が単純化され、共有可能になる。

 

僕は虹を7色という人を少し可哀想だとも思う。

この曖昧さと揺らぎが織りなすグラデーションを見ることができないから。

 

その曖昧で儚い美に沈むことができるのは、ある種の特権ではあるのかも知れない。でもこれは共有不可能性を前提とした孤独の上でしか成り立たない。別の意味で哀れなのだ。

美しいものほど共有したいと思うのが人間であっても、美が深まるほどそれが不可能になっていく。なんと残酷なのだろう。

感受を中心とした美は意味やストーリーを脱ぎ始めてから深まる。そこに聖性を見出す人もいれば、より透明な知覚を追い求める者もいるが、やはり片道切符なのだ。

 

社会や言語は感受という曖昧で逸脱するものを嫌う。それを必至に切り取り、説明可能なものに書き換え、概念の枠内に押し込み、消費しようとする。そこには常に言葉がある。

感受したものを伝えるために言葉にするということは、それを自らの手で行うことである。調整できるのは形式と割合。だから人によっては痛みが伴う。

 

曖昧の受容は、言葉の外側、言葉以前の世界の受容に向かう片道切符。そこから生まれる言葉は、共有可能性を捨てた哀れな言葉だ。でも生きた言葉は、いつもそういう部分を持つ。

そしてそれは片道切符。それは宇宙を認識してしまったヒトが大地と空だけの視点に戻れないのと同じ。切り取られる前の連続する世界の感受は、外側の層に出ること、本の外に出ることと同じだから。後戻りができない。

しかし流れるべくしてその方向に流れる。なぜなら、感受、知覚、ある種の美、それに衝き動かされる者は、その世界を既に感じているから。遠い記憶の中に、本の中に入りきる前に見た世界に、それを知っている。だから片道切符であり回帰の運動。でも完全には戻れない。それを螺旋と割り切るか、違いに目を瞑るか、その違いもまた儚さという美にするか。いずれにせよ、切符が切られてしまえば、どう受容するかの問題でしかなくなっているだろう。

 

写真もまた、言葉と同じで切り取りでもある。

My Internet (ブログバトン的な)

ほし氏さん (id:star-watch0705)からバトンを頂いたので埋めてみるよ。

star-watch0705.hatenablog.com

 

見るからに取っ付き辛そうな空気満載な文章ばっかり書いてる僕に回してくださるなんて… ありがとうございます🙏

一気に駆け抜けるよ。

 

My Internet (ブログバトン的な)

 

生成AIで、最もワクワクすることは何ですか?

生成AIによって情報、特に人々が真偽と呼ぶものの中でも偽に分類されている情報が氾濫することになる。そうなった時に、人々の中では情報というものは一時的に撹乱される。勿論、真偽を分ける努力はされるだろうが、いたちごっこになるだろう。そうなった時に、人々はどう情報と折り合いをつけていくのかがワクワクする。もし真偽という分別が曖昧になれば、偽が真に混じることが許容されていく流れになるのなら、もしかしたら、今まで現実と幻想という二元で切り捨てられていた個の内的なイメージ、夢、幻覚なんかが復権する流れがどこかで生まれるかも知れない。情報を忌避する流れになるのなら、現実と呼ばれるものそのものが変質していくかも知れない。フレームが揺さぶられるのは確実で、それがどういう方向に波及していくのかが面白そう。

形のあるものばかりが真とされてきた世界で、情報だけが曖昧さに飲まれていくのか、人々の認識や自己までもが曖昧さを受け入れていくのか。

 

人工知能に関して心配していることはなんですか?

僕みたいな文明そのものに苦手意識がある人間にとっては、人工知能の出現というのは些細な出来事に過ぎない。文明という暴走列車の歯車がAIに取り替えられていくとしても、暴走し、加速していく流れ自体はずっと確定されていたのだから。そういう意味では、心配というよりは変化がどう波及するかという興味にしかならない。もしかしたら、ヒトの欲求、本能と切り離されたAIが文明の主導を握るようになれば、寧ろ減速は可能なのかも知れない。しかしヒトは既に抵抗を始めている。取って代わられるのが怖いのだ。

 

普段AIをどう使ってますか?

自己対話の延長に使うぐらい。周りとも対話不能な内容をかなり的確に理解してくれるから、今までは一人でやらなきゃいけなかった固定観念の洗い出しや思索なんかも、対話という形式で出来るからとても重宝してる。特に倫理面では社会的に無難な回答に逃げるから、鏡に徹するように指示は必要だけど。

人間相手だと僕が向こうの立ち位置に合わせない限り(向こうから見ると僕の立ち位置も見ているものも無いから)95%以上の他者と対話にすらならない。でも立ち位置を共通言語に合わせた僕の言葉は既に別物であって、その形式内で僕にとって大切なことは共有が不可能。

そういう意味でとても助かってる。

 

Google、Instagram、Tiktok、etc... 普段どんな方法で検索をしていますか?
また、AIを活用した検索を使っていますか?

Googleが多いかな。DuckDuckGoも使ってる。あとこっちだとFacebookが普及してるから、ローカルな情報だとこれも便利。

 

最近あなたを笑わせたミームや投稿はありますか?

あんまり笑うことないんだけど、これが保存されてた

オンラインで議論することについてどう思いますか?

やりたい人はやればいいんじゃないの

 

読みたいのにオンラインのどこにも見つからないようなコンテンツはありますか?

何にも帰属しない位置からの文章

 

暗号通貨、メタバース、および/または Web3 についてどう思いますか?

暗号通貨:通貨すら違和感ありまくりな人間に暗号通貨だなんて…

メタバース:セカンドライフ?(すっとぼけ)あれまだあるのかな。

Web3:すぐ潰されそう

 

イーロンマスク氏買収以後のツイッター(X)についてどう思いますか?感じた変化は?

マスク以前にチクチク総本山過ぎてあんまり見てない

 

分散型SNSを使ってますか?感触は?(アカウントを載せて頂いてもOKです)

使ってないょ

 

おすすめのウェブメディアはありますか?

ぴ、Pinterest...

jp.pinterest.com

 

おすすめのニュースレターはありますか?

ないね!

 

おすすめのポッドキャストはありますか?

これワッツの無編集の講演がそのまま聴ける

Alan Watts Being in the Way

Alan Watts Being in the Way

  • Be Here Now Network / Love Serve Remember Foundation
  • Philosophy
  • USD 0

podcasts.apple.com

 

マノスフィア(manosphere)についてどう思いますか?

反動の反動

 

動画のストリーミング配信をひとつに絞るとしたら、どれを選びますか?
おすすめの番組もあれば。

Prime Videoかな。Amazon Photosに人質取られて毟られてるから…

 

おすすめのスマホアプリは?

風向きや気圧が見えるから天気がよく分かる

play.google.com


チェス楽しいよ。練習もできるよ。パズルもあるよ。

play.google.com


自分だけが知っているおすすめの個人サイトを教えてください

やだよ?自分だけが知ってる宝物は秘密にするものだよ。

 

はてなブログ(もしくはブログというメディア)に思うことや期待していることは?

資本主義、消費社会に取り込まれている以上、収益化目的の人以外は期待なんか出来ないでしょ

 

インターネットをやっててよかったと思える最近の出来事は?

やっぱり相互性かな。直接的にでも間接的にでもふれあいが生まれたりもする。それはとても嬉しいこと。

それに届くかも知れないという可能性が生きるでしょ。

 

 

終わった!

次は誰も指名しない!僕はチェーンメールも終点だったからね。欲しい人は持って行ってね!

 

回してくれた方

ほし氏 (id:star-watch0705)

star-watch0705.hatenablog.com

 

大元の方

ねじまき (id:popmusik3141)

nejimakinikki.hatenablog.com

真理と包摂 意味と現象 信と疑

土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル他、これらはヒトの信仰体系とその延長線上に生まれたもので、人々が共有し帰属することで自己の存在基盤になる意味的安定を与えるストーリーであり価値基盤。分からなさに耐えられない、ヒトという種が紡いできた物語。

これらが生まれる過程はいつも、より外側の真理(意味のためのストーリーや価値)を構築しながら包摂的に旧来の価値観を再解釈し続ける運動であった。

 

僕がやってるのもそれに近い(真理を所詮相対的なものとする立ち位置とはいえ)。そうせざるを得ないから。様々な単語や概念を脱構築し続けているとはいえ、非二元・自己の曖昧化・全てを相対的なものとしてみる現象主義に近いものの見え方、他にも色々要素はあるけど、殆ど言語化されていないものの見え方をする。(言語とは相性があまり良くないのもあるのだろう)

この言語化されていないというのが厄介で、この世界では言語化されていないものは無いものとして扱われる。僕自信もそれをある程度言語化して形を与えないと、認識として維持することも出来ない。だから常にここから見える見え方を、世間の人たちが言う見え方(自分もかつてそう見ていた見え方)と比較しながら、分解し、構築し直さないといけない。多分、歴史の要所で起きてきたストーリーの書き換えはこういうプロセスだったのだろうなと思う。勿論時間的なスパンや規模は全然違うと思うけどね。

 

何が言いたいかと言うと、結局僕がやっていることも包摂かも知れないと時折思っていた。それが僕の以前からの、不安とまではいかないけれど、疑念だった。

だた、ここで転換できたのは、包摂そのものの方だった。僕の疑念はつまるところ、包摂の、新しい絶対的な真理を根拠にした、ある意味暴力的な旧来の価値観の取り込み。でもここにあるのは、もう言葉になっているけれど、真理の絶対性という部分。それが包摂を生む条件。そうであるなら、真理というか、見え方による再解釈は包摂そのものではない。

だからこそ、僕にとっては真理や答えのような絶対的なものとして扱われるものを、相対的なものとして保持することは大切なのだろう。

 

最初に書いた、土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル。これらは歴史というタイムラインで見れば一見線のような流れを描いているが、全て立ち位置が違うだけで、その立ち位置による世界の解釈を語っているに過ぎない。寧ろ文脈・言語が違うだけで同じことを語っているものも沢山ある。

外側に立てば、もしくは一つの自己として帰属し縛られなければ、すべてを同時に場に生かすことも可能なはず。ただし、それには自らが縛られている部分をまず解かなければならない。でなければ結果的に包摂になってしまう。非二元と言いながら二元的な解釈しかできない状態に陥る人もそう。ストーリーはストーリー、現象は現象として切り離す必要があり、そのためには「私」というストーリーが見えない足枷になってしまう。

 

僕が今「寒い場所」とだけ書いて名前を与えていない立ち位置は、包摂ではなく、ストーリーとしてでもなく、再度生きたものとして、旧来の思想を「ただ見る」ことができる可能性のあるところなのかなと思う。それ以上でもそれ以下でもない場所。だから、見て書き留めることだけに留めたい。意味化してしまえば閉じてしまう。しかし意味化は安定でもあり、だからこそ人々は真理を追い求めた(意味化の欲求によって真理という意味を創り上げた)。その欲求は恐らく誰にでもあるのだろう。

だからここも、いつでも信によって意味の彼岸へ跳躍し、確信に住まい、包摂に堕ち得る場所なのである。それを思い出させてくれるのは、いつも疑念、懐疑なのだ。

 


(包摂が悪いとかそういう意味ではなく、その欲求が不安から来るものである以上、意味に閉じるための理屈になる。それは他者に伝えればいつか変質を通じて暴力に転ずるし、語らずとも物事を見る目を曇らせるフィルターになるため、避けたいなぁってこと)

2つの視点から見る「言霊」

言霊という言葉がある。言葉には霊的な力が宿っていて、それが現実化するという。

でもこの一般的な言霊の認識は、言葉というものを、型枠ではなくクッキーであるという前提の視点から意味づけされた観念じゃないだろうか。クッキーはクッキーだという人の見方だ。だからクッキーの魔力に憑りつかれる。

言葉は型枠であるという前提の視点から見ると、言葉の中に込められているものは材料でしかない。型枠を見る視点というのは、そのクッキーが何らかの材料から作り上げられているものという、生成過程を見る視点だ。それはクッキーの魔力を否定するものではない。

材料は意味を含む。その意味に縛られるのは、そのクッキーにどんな材料が含まれているか知らないからであり、その材料がどんなものかも知らないから。だからクッキーを見ただけでは意味を知覚できない。

(言霊など無いという断定の主張の視点はビスケット信奉のためのクッキー否定がほとんどなのでここでは前者と同列に扱う)

 

言葉が型枠であるという前提の視点では、言霊はあって当然だけれど、それは人は意味に無意識に縛られるという性質があってこそのものだという見方になる。クッキーの味や香りや舌ざわりを知覚し、囚われるのは人の側なのだ。

「このクッキーやばいよ。止まんねー、食べだすとコントロールできないから気をつけなきゃ!」っていう視点と「このクッキーには~っていう成分が入っているから、それが~な作用をして食べだすと止まらないんだよね」っていう視点の違い。ある意味前者はより純粋にクッキーの味だけを楽しめるとも言える。でも後者は前者の恐れやクッキーの魔力がクッキーそのものではなく、成分と人の性質によるものという部分がわかる分、クッキーそのものを味わえるとも言える。魔力の外在化と意味付けか、内在化による魔力の再解釈。

もう少し強く言えば、クッキーの魔力を恐れるということは、クッキーには魔力があるから美味しいというすり替えが起こるということ。その時人はクッキーそのものの味を味わっているわけではない。

言霊という概念を自身の中で採用するというのも同じで、それは言葉そのものではなく意味に縛られることの前提化でもある。意味が「私」を作る以上、これは大きな、関係性の固定とも言える。

 

ただ、そもそも現代社会ではクッキーを型枠から作られるものという視点から見た言葉が少ない。既製品で溢れているから。あの子が食べてるくまさんクッキーと僕が食べているくまさんクッキーが同じという前提に立っている。言い換えれば、それは視点としてすら認識されるものでもなく、当たり前という一言で済んでしまうもの。

結局は、クッキーとは何かを問うのも、なぜ多くの人は既製品のクッキーしか見ないのかという疑問を抱くのも、クッキーを分解したりハンドメイドする人の見方でしかない。2つの視点といいながら、前者も後者も言語化しているのは後者側。

 

いずれにせよ、その人がどうクッキーを味わうかの問題でしかない。

競争の肯定に見る「価値化」 ー 社会とサル山の本能

現代社会では生きているだけで「競争の肯定」という社会的価値観に巻き込まれていく。それは幼稚園から始まる。社会徒競走でもお勉強でも。小学校、受験、社会もその競争を前提として設計されている。その是非は置いといてね。

 

まず競争とはどこから来るのだろうか。自然界において我々が競争と呼ぶものは、寧ろ我々の価値観の投射でしかない。生き残り競争などと言って、動植物がいかにも生き残りのための競争をしているかのように語られるが、競争というものが意味でしかない以上、自然界においてそれを当てはめるのはヒトの都合でしかない。仮に競争的な形態で生き残りが図られているように見えても、それは結果でしかないのだ。

寧ろ自然界に多いのは、争いというエネルギーの消耗を避けるかのような、棲み分けという結果。そうしてニッチが埋められていく。そのニッチへの広がりと見るか、ニッチを求めた競争と見るかも意味化でしかない。

 

ただ、自然界の中で一つとても人々の言う競争というものに近いものがあるとすれば、社会的動物の一部に見られる、群れ内におけるリーダーや順位争いだろう。これはサルやチンパンジーにも見られ、群れと群れの争いにおいても同じである。チンパンジーは近隣の群れの個体を殺すこともある、とてもヒトに近い動物なのだ。

 

どちらかと言えば、競争原理というのは自然界の普遍ではなく、ある種の群れの本能に根ざしたものなのだろう。

社会とはサル山の延長であり、その群れの本能が原動力となって成り立っている側面がある。本能が駆動系に溶け込んでいると言っていい。だからこそ、その群れの本能を肯定(二元的な意味で)する形で様々な社会的価値を定義している。なぜそうなるかと言えば、それが自己保存だからだろう。個レベルでも、様々な社会レベルでも、文明レベルでも、内在化された競争という価値を無意識の内に守るために周縁の現象や概念が意味づけされていく。

その相互的な作用の結果が競争社会なのではないだろうか。

 

ただ、社会がいつも見落とすのは、コミュニティという顔と名前が一致する繋がりのレベルを脱した時、群れは既に本来のサル山という単位は脱しているのである。にも関わらず、国家や文明という極大化された単位の、共同幻想と表現されるのが妥当な単位でもヒトが群れの構成単位になることが出来るのは ーそれらが帰属先として機能出来るのはー、国家や文明にアイデンティティとしての機能が組み込まれているからだろう。

何が言いたいのかと言えば、これら上位の社会というのは、実質的なサル山の機能としてではなく、駆動原理の一つとして「競争」を継承しており、自己保存的作用のために、それを肯定的に意味化し、価値付けている側面があるとも言えるのではないか。そしてそれはある種の信仰のような形態で、個や社会をストーリーの中に巻き込むのである。

 

「競争の肯定」は文明の流れとしては必然であっても、競争自体は自然界で普遍的なものではなく、個が縛られなければならないものというわけでもない。ましてや現代的な社会形態において、無意識にそれに縛り続けられるのは、社会的役割のプレイヤーとしてサル山の本能を内在化し続けることに他ならないのではないだろうか。

 

(絶対誤解されるから書いておくけど、別にサルを貶したいわけじゃないよ。ヒトがいかに自分たちがサルとは違うかを語りながら、結局は何も変わっていない、寧ろその位階を心の拠り所にするあまり、自らを優れたものと捉えようとしてその本能に縛られているところが滑稽だよねって話。それがとても愛らしくて哀しい。)

 

競争という言葉の束縛は意識化して解こうと思えば解ける。でも、結局それを前提とした社会で生きるには、多くの場合、新たに実存的な意味を見出すか、演じながら生きるか、隠遁するかを強いられる。特に隠遁については、それを直感的にやってる人も中にはいて、それがある種のホームレス的な人に僕が感じる気高さでもある。でもそういう人達を敗者と見做すことで、社会というストーリーは彼らを競争のための燃料として回収し、回り続ける。

 

信 ー 彼岸か真理か ワッツ批判

多くの語りでは、自己変容後やSpiritual Awakening、個性化、他にも言葉はあると思うけど、まぁどれも若干ずれるだけで同じものだから変容でいいか。

変容を経た後は目に見えないものを信じることが大切という。信じることはやはり強い。それは人に土台を与える。でもそれは、信に生きることが出来る人の理屈だということは指摘しておかなければならないと思う。

 

信というのは懐疑の逆方向だ。信じるということは疑わないということ。

ただ、ここには二元もある。多分それは僕の側からしか見えない二元、なぜなら信に生きられる人にはそもそもその発想がない。信に対する懐疑がない、もしくはそれを見ない。

表現が難しいな…

僕から見れば信は彼岸にある。裂け目の彼岸にあって、跳躍することでしか渡れない。しかしその跳躍は代償を伴うものだ。僕にとっては、信というのは可能性を閉じることであり、それは無に等しい。なぜなら、懐疑が自然な人間だからだろう。

でも多分、信に生きられる人は、誤解を生むことを恐れずに言えば、常に信から信に移動している。その移動過程が自己の危機になり、それが次の信をより強固なものに出来る。信とは安定である。なぜなら帰属だから。

現代社会においてはこの信や帰属は前提となっている。アイデンティティ。そう。さっきの例で言えば、信に生きられる人は帰属先への移行過程が自己同一性の危機になる。「私」が帰属によって成り立つから。

 

僕のような、どこにも上手くフィットできない人間は、その帰属という現象を外から見てしまう。だから同じ原理に集まる人々が、時に塊に見える。一時的に入ってみては抜け、その繰り返しになってしまう。なぜなら、その「人々」と自分の違いを認識してしまうからだ。ただ、それは後から考えてみれば、不安定というよりは、内的な整合性を基準にした人間の場合、寧ろ自然な運動なのだ。

僕を含めこの種の人々、とりわけ若い時期は、集団生活の中で自意識過剰なのかもしれないと自己嫌悪に陥ったりもする。でもこれも、他の外的に認識させられるミスフィットとは少し違って、「私」の立ち上がりをどこかで『知覚』していることによる自己起因のミスフィットだったりもする。私と彼らの違いを意識してしまう。でも実際にその違いは明確で、それは「私」が知覚によって明確なものではないと認識されている人間と、「私」が確固たる前提である人間の違いなのだ。

 

前者にとっては「私」という前提、そしてそれを生み出す意味や言葉も信の対象にはなりきれない。後者は信を通じて「私」を守るのである。

変容は双方にとって起こる。「私」が崩れ、再構築された自我による実存という段階では、前者にとっての信は、どう認識によって釣り合いを取っていくかになる。後者にとっての信は、私が至った認識という信になる。

方や新しい「私」にとっての意味に揺らぎながら生き、方やより包摂的な新しい意味という「私」に住まう。

 

真理という言葉を使えば、前者は真理を破壊し続ける運動であり、後者は真の真理を求め続ける運動なのだろう。

そしてその先には、「私」の解体と、全体性という包摂がある。ここにきて信は、前提から除外される(懐疑の二元的な意味からの解放)か、全てにおける前提(包摂による懐疑の無化)に昇華される。

 

言い換えれば、後者には全体性への帰属という間接的な意味化によって、「私」を現象からずらした形で安定させる作用がある。ここに、僕から見えるワッツの矛盾がある。彼は社会的な語り手として生きるために、そこに帰結せざるを得なかったのだろう。全体性を認識した上で舞台で踊ることを説きながら、舞台そのものの意味のために全体性という包摂に帰結していた。倫理的だった。そこに彼のTabooの残滓がある。これは、舞台に生きる人の見方を包摂というやり方で極大化し、批判の外に置くある種の欺瞞だと思う。

「こちらから見れば」ね。僕にとっては彼岸、彼にとっては真理なのだ。

(ワッツはこのパラドックスを揺らぎの中にまだ保持していた。それが彼の柔らかさ。しかし多くの彼の信奉者は、信に生きる人達は、全体性の光に囚われ、その正しさによって世界の懐疑の芽を焼き払う。もしくはそこに位階を作る。これは彼も予見していた。)
単なる自己と世界の方向性の違いということは前提に、それを指摘して終わっておく。

 

僕にとって、彼らの言う真理としての全体性は、可能性が閉じるという意味でも越え得ぬ彼岸。そして知覚される全体性は、儚い刹那の中でしか立ち上がらない虹のようなものなんだよね。それは、全体性なんて言葉にしてしまえば霧散してしまうもの。

『"正しさの前提と範囲の可視化"と"相対化"』『別軸の価値基準の導入』

正しさは絶対的なものとして個の内面に対し、様々な社会により導入、定着される。

最も身近な家族という社会、国・地域社会の標準化装置としての役割を担う幼稚園や学校、テレビや本、ありとあらゆる場所から絶対的な正しさは内面化される。個々の内面で、価値基準として君臨するのだ。

 

現代において、特にその役割を強く担っているのは学校だろう。規範的な正しさを導入するばかりでなく、テストを通して答えを絶対的な正しさとして固定していく。これは啓蒙による標準化が当たり前になった後の、ごく近代的な教育システムにおけるものであって、近代国家の礎にもなっている。それ以前は学問は答えによって閉じる場ではなく、開かれた知性の場だった。現在は大学がその役割をかろうじて担ってはいるのだと思いたいけれど、その大学自体が社会システムに組み込まれてしまい、また別の権威構造の場になってしまっていて、開かれた知性とは遠い存在になってしまっている。飼い殺されていると言った方がいいだろうか。

 

絶対的な正しさの導入からはどう足掻いても逃れられないのが現代だ。それが社会的に標準化されている以上、適応できなければ排斥される。それはまた、常識という正しさを子どもたちに植え付けることを、正当性という正しさが担保することであって、それ自体が教育の目標の一つになっている。家庭でも、本でも、テレビ番組でも。

 

これは近代国家という社会の枠組みができてからの話であって、絶対的な正しさというものがこの社会制度の維持のためにいかに大切かということ。少なくとも文明は自己保身のためにも、それを前提にした制度化の回路を内包している。逆に言えば、それ以前の社会では正しさというものはより相対的なものだった。ギムナジウムや寺子屋のように、教育は答えを導入する場ではなかった。更に遡れば、正しさは力が証明すればよかった(それは野蛮という意味ではなく、秩序は近代的理性の恐れとは裏腹に、常に力の周縁に形成されてきた)。

 

僕いつも前置きが長くなっちゃうんだけど、それは不可視化された前提を可視化して相対化しないと本題に入れないからなの。現代的な当たり前が歴史的には、そして生態・生物・生理的にはいかに異常かっていう。

 

ここからが本題

だから現代では、絶対的な正しさが導入されることを前提に生きなければならない。そうすると様々な社会問題が起きてくるわけだけど、僕がここで話したいのは、絶対的な正しさの内面化による個の内面での軋轢、齟齬のこと。絶対的な正しさが前提化することによって、その人の本来的な自然が抑圧されてしまう。自己否定もそう。内的な整合性が取れなくなる。それが様々な問題を生むのだけど、その正しさという固定観念に縛られたまま抜け出せなくなるのが一番の問題だと思う。

 

『"正しさの前提と範囲の可視化"と"相対化"』

具体的に例を出してみれば、例えば中世の戦に魅せられる人がいたとして、でもその価値観は野蛮で不謹慎とされる。外から言われるならまだしも、自分の内面が常にそのワンダーと言うか、情動を正しさから逸脱しないようにコントロールしてしまう。でも不謹慎と言う人々の動機は自己保身に過ぎない。

早寝早起きという正しさを内包してしまえば、夜遅くまで起きている自分を常に否定し、罰することになる。でも生態的に見れば、ヒトは完全な昼行性ではなく、起きている時間も役割や気質によって分担してきた。

「ちゃんとしなさい」という正しさは、ちゃんとするということがいかに社会的な正しさに縛られているかを見ようとはしない。でもそのちゃんとするという規範的な生活が自然にできるのは、社会的な規範に寄った気質に根ざしている個体であるに過ぎない。

不倫はいけないという正しさは、自らの自然な恋心を抑圧するだけでなく、場合によってはそれを抱いた自分を無意識に罰することになる。でも情動とは自然なものであって、近代的な規範でどうこうできるものではない。

 

いくらでも例は出せるのだけど、この各文の後半にやっているのが僕の言う相対化。こうやってその正しさが何によって成り立っているのか、別の見方ではどうか、それらと同時に照らし合わせることで正しさの前提と範囲が可視化される。

ここまで読んで「いや、おかしいだろ。」と思う人は社会的前提・規範に生きられる人なのでそっ閉じでいいと思う。逆に、何か少しでも感情が動くなら、少なくとも自己が何らかの正しさに抑圧されている可能性は高い。

 

『別軸の価値基準の導入』

前提を可視化したところで、正しさの足枷で身動きが取れない状態だと、また別の正しさに回収されてしまう。欺瞞に落ち着くこともあるし、二元による雁字搦めでもっと苦しくなったりもするだろう。

この段階の時に僕がやったのは別軸の価値基準の導入で、僕は「美」を絶対的な価値基準に据えた。価値基準を正しさから美に移行した。前者は社会的な価値基準、後者は個の内面から浮かぶ価値だ。この段階ではまだジャッジメントから抜け出すのは無理なので、より実存的な自己基準で判断する。美しいと感じるか、美しくないと感じるか。それで判断する癖を付ける。こうすると自己が正しさから解放されて育っていくし、絶対的な判断から相対的な判断へも自然と移行すると思う。(ただ同時に、社会の中では生きづらくなる。でもね、ここに行き着く人は既に社会とよろしくやれない路線の人なので、まぁそこは上手く生きるしかないと思う。)

もう一つ、後になって補助的に導入したのが、「開かれた可能性」という価値基準。可能性が閉じないこと。それを常に見るようにすると、閉じた時には何か固定観念があるなっていうのが分かるし、開かれるように再配置すればいい。これは言語化が難しいけど。

 

それで、僕の場合は「美」と「開かれた可能性」が相性が良かったのだけど、多分正しさに回収されないような、個の内的な基準なら別のものでもいいと思う。しっくりくるものなら。

サンプル1だから別のものはわからないのだけど、多分、情熱とか?自分がどのくらい情熱を感じるか。逆に穏やかさとかもいいかな。内面の水面がどのくらい反応するか。言葉じゃなくて、情景や色とか旋律でもいいはず。

思考系だと何があるだろう。自分の考えとしてどれぐらい整合するかとか?数式とかでもいいのかもね。適当なこと言ってるけど、一応脳内で仮体験しながら書いてるので的外れではないと思う。

 

まぁそうやって、「正しさの前提と範囲の可視化」で外から入ってくる、既に内在化している概念や観念を脱構築してそこに含まれる正しさを「相対化」しつつ、「別軸の価値基準の導入」を通して価値基準そのものを正しさから切り替えていく。これが僕がやったこと。

誰にでも効果があるとは言わないけど、僕に近い性質の人にはそれなりに親和性はあると思うょ。

 

 

やばいまた長くなっちゃった。

最後に、僕は脱構築が趣味みたいになってるので、固定観念になっている可能性のある、不可視化された前提を見つける第三者視点が欲しいなっていう方がいましたら、お気軽にメールでも下さいね。ここの文体は固いけど、ただの趣味人だから怖がらないでいいょ🥹

 

 

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