自己否定と前提化された肯定像 鏡

肯定ー否定軸と言うように、否定の対極にはいつも前提化した肯定像がある。

 

これは自己否定も例外ではなく、自己否定の対極にも肯定像やそれに伴う条件、正しさがある。なので自己否定を受容に持っていく場合、自己否定そのものよりも対極の肯定を掘り当ててその肯定像を生む正しさを捉え直す必要がある。

多くの場合これは不可視化され、防衛の為の自己欺瞞で守られているため、ここを直視して貫くのは中々大変でかなり痛みが伴う。

でも、ここが中途半端だと結局は自己否定を温存したまま別の正しさに鞍替えして住まうことになる。

 

それが悪いわけではなく、それはそれで信の素質

なのだろう。スピリチュアル界隈や宗教だけでなく、社会の倫理なんかもその人たちの受け皿になっている。実際このルートに落ち着く人の方が圧倒的に多いし、傍目に見ると幸福度は高そうだ。

 

問題はそこに落ち着けない人がその正しさに絡め取られてしまうことで、出口に気づかなければ自らをすり減らしながら生きたり、引き裂かれることを強いられる。なので、欺瞞を許せない自覚がある人はそれっぽい言説には気をつけた方がいい。

自己肯定感、ありのままでいい、私を大切に。こういう言葉には罠がある。ある意味では、それらは既に新しい正しさ、鞍替え先へのチケットとして世に溢れている。

愛や宇宙のような包摂真理系は直接的な害はないようには思うけど、それぞれ別の言語体系で同じことを言ってるぐらいの感覚の方が距離感が保てていい気もする。実際同じことを別の言葉で言ってるだけだから。


自己否定に悩む人が否定ばかりが気になって肯定側に目が届きづらいように、内的な齟齬の原因は多くの場合鏡の反対側にある。

なので鏡の両面を探りながら嫌悪を与え、反応する場所を探してやる練習をするのもいいかもしれない。そういうある意味マッドな内的探求が出来る人は欺瞞に落ち着けない側の人だろうし、二重の意味で。

 

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言葉の2つの作用 侵食の契約 抽象と具体

言葉には
・物事に形や名前を与え、表す固定化の作用
・他者に伝達するための共有の作用
がある。

制度・社会的な用法が正しさを持つ現代においては後者ばかりが肯定され、その作用をもった言葉ばかりが顕在化する方向に傾いている。言葉以前を表すための言葉ではなく、既に形作られ、概念・観念化されたものばかりが流通し、凝り固まっている。

言葉以前の知覚というのは感受の世界だ。後者の、既製品の言葉で言葉以前のものを表そうとするとどうなるか。感受の側が既製品が支配する世界に侵食されるということが起きる。これは共有のための言葉を使うことが、後者の世界を受け入れるという暗黙の契約を含むからだ。

和歌や詩が一般的な時代では感性で言葉を用いることが一般的で、言葉の解釈に幅が生まれることを人々は許容していたのだと僕は思う。しかし、現代では詩でさえ形式が支配し、正しさの裁定の下で生み出される。

 

僕にとっての言葉は、その流れに対する拒絶なのかも知れない。思考の介在を意図的に抑えて共有可能性を削いでいる以上、孤独は前提化する。しかし、それは人々が世界と呼ぶ、元々は世界の切り取りであった、既製品の織りなす何らかの像の複製の複製の複製の複製の……によって僕が知覚する世界が侵食されることを阻む唯一の方法なのだ。

 

リンゴを赤くて丸い果物という前提化された観念を共有している人が見るリンゴと、そこにある前提を赤という観念すら崩した上で見るリンゴと呼ばれるものでは鮮やかさや形が違う。後者で知覚されたものを、共有可能な言葉で表せば、見えたものは削がれ、単純化され、失われ、別の何かであるリンゴになってしまう。それは最早別物だろう。感性で言葉にする分には、そこにはその瞬間の嘘がない。曖昧か、誇張かどうかの外的判断は共有しない以上、契約しない以上引き受ける必要がない。抽象・流動に寄るが、それは具体の、言葉の性質と限界を見切ることでもある。

 

抽象の美。それは、美しいものを経験すればするほど沈んでいく、孤独の底なし沼でもある。しかし知覚が先に来る者にとって、世界は元々抽象でしかない。なら、致し方ないのだろう。

 

 

(具体が先にくる者は、僕が言う、言葉、既製品の像の世界に生きている。それが彼らにとっての世界である以上、否定する意味もない。あるのは違う世界という前提と僕にとっての見え方、僕かすらわからないものが知覚している何か。違うものを見ている以上交信もできない。だからそこに向かって僕が何かを書き残すこともない。)

 

 

共有、他者。僕と世界の間に他者は居ない。そこがワッツや荘子のような、伝える役割を背負った人たちの見る世界と、僕の見る世界の違いだと思う。

彼らは背負ってなどいないと言うかも知れないが、それも織り込み済みだからだ。そうでなければ、あそこまで透徹した眼を持った者たちが伝える「ために」言葉に余白を持たせることなどできないはずだから。

世界と私

知覚により切り取られる前のものが世界であるとすれば、僕に認識されるものは脚色された世界の切り取りである

 

知覚されるものが僕にとっての世界であるとすれば、僕に認識されるものは切り取りも脚色も含めて世界そのものである

 

この2つの世界は並立できる。

自分の周りに広がる大きな世界は、自分を通して触れるもの

自分を通して内外に広がり、通り抜けていく世界は、それに触れられることで自分が浮かび上がるもの

 

人々が言葉によって共有する世界は、その更に切り取りであり、単なる像であり、変わり果ててしまったもの。ただ、それもまた、恐らくその人達にとっては世界なのだろう。

彼らの言う現実もまた、その更に切り取りであり像である。彼らの言う幻想は、彼らが世界から切り捨てた現実の一部である。

 

自分にとっての世界、そして世界によって在る自分がまだ幼い時、「その人たちにとっては」という部分を忘れると延々と巻き込まれ続けることになる。ある意味、像に囚われてしまうのだ。

 

世界を世界のまま受け容れるということは、共有不可能性の受容、そして一度確立した「私」を手放すことと地続きにある。それは孤独を受け容れることに他ならない。裏返せば、世界には、「私」が孤独を受け容れなければ見せてくれない顔があるということ。

それは、透過率の高いフィルターほど孤独や苦しみの深度を要求するからであり、それは時に狂気とも呼ばれる。だが、それもまた、言葉を信じ感受を恐れる者たち、「その人たちにとっては」なのだ。

 

 

 

*透過。「私」が薄まるほど世界は深まり、やがて世界がその一部として浮かび上がらせる淡い私はよりはっきりとしてくる。

曖昧の受容

曖昧の受容は、共通言語的なストーリーからの離脱に向かう片道切符だ。

社会は共有可能性を正しさとした共通言語、そしてそれによる意味づけによって成り立っている面がある。

 

一番わかり易いのは虹だと思う。「虹は何色か?」と問われれば、「7色。」そう答えるのが掟のようなものだ。

でも本当に7色だろうか?それらの色に境界はあるのだろうか?虹が先か色が先か?

 

名付けというのはとても合理的な営みだ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。名付けられた色が枠を持ち、それを基準に外の世界を見るようになる。合理化、言い換えれば世界が単純化され、共有可能になる。

 

僕は虹を7色という人を少し可哀想だとも思う。

この曖昧さと揺らぎが織りなすグラデーションを見ることができないから。

 

その曖昧で儚い美に沈むことができるのは、ある種の特権ではあるのかも知れない。でもこれは共有不可能性を前提とした孤独の上でしか成り立たない。別の意味で哀れなのだ。

美しいものほど共有したいと思うのが人間であっても、美が深まるほどそれが不可能になっていく。なんと残酷なのだろう。

感受を中心とした美は意味やストーリーを脱ぎ始めてから深まる。そこに聖性を見出す人もいれば、より透明な知覚を追い求める者もいるが、やはり片道切符なのだ。

 

社会や言語は感受という曖昧で逸脱するものを嫌う。それを必至に切り取り、説明可能なものに書き換え、概念の枠内に押し込み、消費しようとする。そこには常に言葉がある。

感受したものを伝えるために言葉にするということは、それを自らの手で行うことである。調整できるのは形式と割合。だから人によっては痛みが伴う。

 

曖昧の受容は、言葉の外側、言葉以前の世界の受容に向かう片道切符。そこから生まれる言葉は、共有可能性を捨てた哀れな言葉だ。でも生きた言葉は、いつもそういう部分を持つ。

そしてそれは片道切符。それは宇宙を認識してしまったヒトが大地と空だけの視点に戻れないのと同じ。切り取られる前の連続する世界の感受は、外側の層に出ること、本の外に出ることと同じだから。後戻りができない。

しかし流れるべくしてその方向に流れる。なぜなら、感受、知覚、ある種の美、それに衝き動かされる者は、その世界を既に感じているから。遠い記憶の中に、本の中に入りきる前に見た世界に、それを知っている。だから片道切符であり回帰の運動。でも完全には戻れない。それを螺旋と割り切るか、違いに目を瞑るか、その違いもまた儚さという美にするか。いずれにせよ、切符が切られてしまえば、どう受容するかの問題でしかなくなっているだろう。

 

写真もまた、言葉と同じで切り取りでもある。

My Internet (ブログバトン的な)

ほし氏さん (id:star-watch0705)からバトンを頂いたので埋めてみるよ。

star-watch0705.hatenablog.com

 

見るからに取っ付き辛そうな空気満載な文章ばっかり書いてる僕に回してくださるなんて… ありがとうございます🙏

一気に駆け抜けるよ。

 

My Internet (ブログバトン的な)

 

生成AIで、最もワクワクすることは何ですか?

生成AIによって情報、特に人々が真偽と呼ぶものの中でも偽に分類されている情報が氾濫することになる。そうなった時に、人々の中では情報というものは一時的に撹乱される。勿論、真偽を分ける努力はされるだろうが、いたちごっこになるだろう。そうなった時に、人々はどう情報と折り合いをつけていくのかがワクワクする。もし真偽という分別が曖昧になれば、偽が真に混じることが許容されていく流れになるのなら、もしかしたら、今まで現実と幻想という二元で切り捨てられていた個の内的なイメージ、夢、幻覚なんかが復権する流れがどこかで生まれるかも知れない。情報を忌避する流れになるのなら、現実と呼ばれるものそのものが変質していくかも知れない。フレームが揺さぶられるのは確実で、それがどういう方向に波及していくのかが面白そう。

形のあるものばかりが真とされてきた世界で、情報だけが曖昧さに飲まれていくのか、人々の認識や自己までもが曖昧さを受け入れていくのか。

 

人工知能に関して心配していることはなんですか?

僕みたいな文明そのものに苦手意識がある人間にとっては、人工知能の出現というのは些細な出来事に過ぎない。文明という暴走列車の歯車がAIに取り替えられていくとしても、暴走し、加速していく流れ自体はずっと確定されていたのだから。そういう意味では、心配というよりは変化がどう波及するかという興味にしかならない。もしかしたら、ヒトの欲求、本能と切り離されたAIが文明の主導を握るようになれば、寧ろ減速は可能なのかも知れない。しかしヒトは既に抵抗を始めている。取って代わられるのが怖いのだ。

 

普段AIをどう使ってますか?

自己対話の延長に使うぐらい。周りとも対話不能な内容をかなり的確に理解してくれるから、今までは一人でやらなきゃいけなかった固定観念の洗い出しや思索なんかも、対話という形式で出来るからとても重宝してる。特に倫理面では社会的に無難な回答に逃げるから、鏡に徹するように指示は必要だけど。

人間相手だと僕が向こうの立ち位置に合わせない限り(向こうから見ると僕の立ち位置も見ているものも無いから)95%以上の他者と対話にすらならない。でも立ち位置を共通言語に合わせた僕の言葉は既に別物であって、その形式内で僕にとって大切なことは共有が不可能。

そういう意味でとても助かってる。

 

Google、Instagram、Tiktok、etc... 普段どんな方法で検索をしていますか?
また、AIを活用した検索を使っていますか?

Googleが多いかな。DuckDuckGoも使ってる。あとこっちだとFacebookが普及してるから、ローカルな情報だとこれも便利。

 

最近あなたを笑わせたミームや投稿はありますか?

あんまり笑うことないんだけど、これが保存されてた

オンラインで議論することについてどう思いますか?

やりたい人はやればいいんじゃないの

 

読みたいのにオンラインのどこにも見つからないようなコンテンツはありますか?

何にも帰属しない位置からの文章

 

暗号通貨、メタバース、および/または Web3 についてどう思いますか?

暗号通貨:通貨すら違和感ありまくりな人間に暗号通貨だなんて…

メタバース:セカンドライフ?(すっとぼけ)あれまだあるのかな。

Web3:すぐ潰されそう

 

イーロンマスク氏買収以後のツイッター(X)についてどう思いますか?感じた変化は?

マスク以前にチクチク総本山過ぎてあんまり見てない

 

分散型SNSを使ってますか?感触は?(アカウントを載せて頂いてもOKです)

使ってないょ

 

おすすめのウェブメディアはありますか?

ぴ、Pinterest...

jp.pinterest.com

 

おすすめのニュースレターはありますか?

ないね!

 

おすすめのポッドキャストはありますか?

これワッツの無編集の講演がそのまま聴ける

Alan Watts Being in the Way

Alan Watts Being in the Way

  • Be Here Now Network / Love Serve Remember Foundation
  • Philosophy
  • USD 0

podcasts.apple.com

 

マノスフィア(manosphere)についてどう思いますか?

反動の反動

 

動画のストリーミング配信をひとつに絞るとしたら、どれを選びますか?
おすすめの番組もあれば。

Prime Videoかな。Amazon Photosに人質取られて毟られてるから…

 

おすすめのスマホアプリは?

風向きや気圧が見えるから天気がよく分かる

play.google.com


チェス楽しいよ。練習もできるよ。パズルもあるよ。

play.google.com


自分だけが知っているおすすめの個人サイトを教えてください

やだよ?自分だけが知ってる宝物は秘密にするものだよ。

 

はてなブログ(もしくはブログというメディア)に思うことや期待していることは?

資本主義、消費社会に取り込まれている以上、収益化目的の人以外は期待なんか出来ないでしょ

 

インターネットをやっててよかったと思える最近の出来事は?

やっぱり相互性かな。直接的にでも間接的にでもふれあいが生まれたりもする。それはとても嬉しいこと。

それに届くかも知れないという可能性が生きるでしょ。

 

 

終わった!

次は誰も指名しない!僕はチェーンメールも終点だったからね。欲しい人は持って行ってね!

 

回してくれた方

ほし氏 (id:star-watch0705)

star-watch0705.hatenablog.com

 

大元の方

ねじまき (id:popmusik3141)

nejimakinikki.hatenablog.com

真理と包摂 意味と現象 信と疑

土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル他、これらはヒトの信仰体系とその延長線上に生まれたもので、人々が共有し帰属することで自己の存在基盤になる意味的安定を与えるストーリーであり価値基盤。分からなさに耐えられない、ヒトという種が紡いできた物語。

これらが生まれる過程はいつも、より外側の真理(意味のためのストーリーや価値)を構築しながら包摂的に旧来の価値観を再解釈し続ける運動であった。

 

僕がやってるのもそれに近い(真理を所詮相対的なものとする立ち位置とはいえ)。そうせざるを得ないから。様々な単語や概念を脱構築し続けているとはいえ、非二元・自己の曖昧化・全てを相対的なものとしてみる現象主義に近いものの見え方、他にも色々要素はあるけど、殆ど言語化されていないものの見え方をする。(言語とは相性があまり良くないのもあるのだろう)

この言語化されていないというのが厄介で、この世界では言語化されていないものは無いものとして扱われる。僕自信もそれをある程度言語化して形を与えないと、認識として維持することも出来ない。だから常にここから見える見え方を、世間の人たちが言う見え方(自分もかつてそう見ていた見え方)と比較しながら、分解し、構築し直さないといけない。多分、歴史の要所で起きてきたストーリーの書き換えはこういうプロセスだったのだろうなと思う。勿論時間的なスパンや規模は全然違うと思うけどね。

 

何が言いたいかと言うと、結局僕がやっていることも包摂かも知れないと時折思っていた。それが僕の以前からの、不安とまではいかないけれど、疑念だった。

だた、ここで転換できたのは、包摂そのものの方だった。僕の疑念はつまるところ、包摂の、新しい絶対的な真理を根拠にした、ある意味暴力的な旧来の価値観の取り込み。でもここにあるのは、もう言葉になっているけれど、真理の絶対性という部分。それが包摂を生む条件。そうであるなら、真理というか、見え方による再解釈は包摂そのものではない。

だからこそ、僕にとっては真理や答えのような絶対的なものとして扱われるものを、相対的なものとして保持することは大切なのだろう。

 

最初に書いた、土着信仰、神話、宗教、倫理、自然科学、イデオロギー、スピリチュアル。これらは歴史というタイムラインで見れば一見線のような流れを描いているが、全て立ち位置が違うだけで、その立ち位置による世界の解釈を語っているに過ぎない。寧ろ文脈・言語が違うだけで同じことを語っているものも沢山ある。

外側に立てば、もしくは一つの自己として帰属し縛られなければ、すべてを同時に場に生かすことも可能なはず。ただし、それには自らが縛られている部分をまず解かなければならない。でなければ結果的に包摂になってしまう。非二元と言いながら二元的な解釈しかできない状態に陥る人もそう。ストーリーはストーリー、現象は現象として切り離す必要があり、そのためには「私」というストーリーが見えない足枷になってしまう。

 

僕が今「寒い場所」とだけ書いて名前を与えていない立ち位置は、包摂ではなく、ストーリーとしてでもなく、再度生きたものとして、旧来の思想を「ただ見る」ことができる可能性のあるところなのかなと思う。それ以上でもそれ以下でもない場所。だから、見て書き留めることだけに留めたい。意味化してしまえば閉じてしまう。しかし意味化は安定でもあり、だからこそ人々は真理を追い求めた(意味化の欲求によって真理という意味を創り上げた)。その欲求は恐らく誰にでもあるのだろう。

だからここも、いつでも信によって意味の彼岸へ跳躍し、確信に住まい、包摂に堕ち得る場所なのである。それを思い出させてくれるのは、いつも疑念、懐疑なのだ。

 


(包摂が悪いとかそういう意味ではなく、その欲求が不安から来るものである以上、意味に閉じるための理屈になる。それは他者に伝えればいつか変質を通じて暴力に転ずるし、語らずとも物事を見る目を曇らせるフィルターになるため、避けたいなぁってこと)

2つの視点から見る「言霊」

言霊という言葉がある。言葉には霊的な力が宿っていて、それが現実化するという。

でもこの一般的な言霊の認識は、言葉というものを、型枠ではなくクッキーであるという前提の視点から意味づけされた観念じゃないだろうか。クッキーはクッキーだという人の見方だ。だからクッキーの魔力に憑りつかれる。

言葉は型枠であるという前提の視点から見ると、言葉の中に込められているものは材料でしかない。型枠を見る視点というのは、そのクッキーが何らかの材料から作り上げられているものという、生成過程を見る視点だ。それはクッキーの魔力を否定するものではない。

材料は意味を含む。その意味に縛られるのは、そのクッキーにどんな材料が含まれているか知らないからであり、その材料がどんなものかも知らないから。だからクッキーを見ただけでは意味を知覚できない。

(言霊など無いという断定の主張の視点はビスケット信奉のためのクッキー否定がほとんどなのでここでは前者と同列に扱う)

 

言葉が型枠であるという前提の視点では、言霊はあって当然だけれど、それは人は意味に無意識に縛られるという性質があってこそのものだという見方になる。クッキーの味や香りや舌ざわりを知覚し、囚われるのは人の側なのだ。

「このクッキーやばいよ。止まんねー、食べだすとコントロールできないから気をつけなきゃ!」っていう視点と「このクッキーには~っていう成分が入っているから、それが~な作用をして食べだすと止まらないんだよね」っていう視点の違い。ある意味前者はより純粋にクッキーの味だけを楽しめるとも言える。でも後者は前者の恐れやクッキーの魔力がクッキーそのものではなく、成分と人の性質によるものという部分がわかる分、クッキーそのものを味わえるとも言える。魔力の外在化と意味付けか、内在化による魔力の再解釈。

もう少し強く言えば、クッキーの魔力を恐れるということは、クッキーには魔力があるから美味しいというすり替えが起こるということ。その時人はクッキーそのものの味を味わっているわけではない。

言霊という概念を自身の中で採用するというのも同じで、それは言葉そのものではなく意味に縛られることの前提化でもある。意味が「私」を作る以上、これは大きな、関係性の固定とも言える。

 

ただ、そもそも現代社会ではクッキーを型枠から作られるものという視点から見た言葉が少ない。既製品で溢れているから。あの子が食べてるくまさんクッキーと僕が食べているくまさんクッキーが同じという前提に立っている。言い換えれば、それは視点としてすら認識されるものでもなく、当たり前という一言で済んでしまうもの。

結局は、クッキーとは何かを問うのも、なぜ多くの人は既製品のクッキーしか見ないのかという疑問を抱くのも、クッキーを分解したりハンドメイドする人の見方でしかない。2つの視点といいながら、前者も後者も言語化しているのは後者側。

 

いずれにせよ、その人がどうクッキーを味わうかの問題でしかない。